映画の話

自主映画について語る会 その2「成るよりも何かしろ」

大人になったら何に成りたい?

多くの人が子供の頃に、「大人になったら何に成りたい?」
という質問をされてきたと思う。

僕は昔から成りたいものが結構変わってしまう質で、ポケモン博士から野球選手、虫博士、医者、植物学者やら大学教授など時期によってコロコロ成りたいものが変わっていった。

なんかわからんが、僕の身の回りの大人は「何かに成る」ことばかりにこだわる人が多かったように思う。
そして「何かに成る」という言葉が僕を必要以上に縛り付けてきた。

親や周りの大人たちの期待に応えようと、コロコロと成りたいものを変えてきたにすぎないのだ。
心の底から成りたいと思っていたのは映画監督だったのだ。

しかしその「映画監督に成る」ということがかなり厄介な問題だった。

公務員や医者のように明確な試験などがある職業であるならば「何かに成る」ということは大いに当てはまり、ある種身分みたいなものができあがっている。

映画監督に成るための試験などどこにも存在しない。
ということに自主映画を始めてから気がついた。

そもそも自主映画を撮った時点で、僕は映画監督に成ってしまっていたのだ。
「これは私の映画です」と宣言した映像を見せたらその時点で誰しもが映画監督に成れてしまうのだ。売れるか売れないかはここでは関係のない話であるのだ。

自分が映画監督だと言ってしまえば、映画監督なのだ。
所詮そういうものなのだ。映画監督というものは。

この考えにブチ当たったとき、僕は非常に悩んでしまった。
心の底から成りたいと思っていた映画監督に成った。

ある意味、夢が終わってしまったのである。

大事なのは「何かに成る」ことよりも「何かをする」こと

「何かに成る」という教育は非常にマズいものだと僕は思う。
もしも自分の望んだものに成れなかった場合、残るものは一体何だろうか。

確かに試験や何かで決まってしまうような職業の場合は「何かに成る」ことが当てはまる。
ただ、僕らが想像してる以上に「何かに成る」ことが当てはまるものは少ないんじゃないだろうか。

どこかの会社で働くにしても、結局大事なのはどこかの会社に所属することよりも会社で何をするかだったりする。

そんなことを教えてくれる大人は結構少ない。
どこかの会社に所属することが第一の目的で、会社でやってる内容など気にもされない。

そんな価値観の中で育った人間が道を踏み外せば当然社会のはみ出し者になる。

「何かに成る」という価値観の中では
「何ものでもない者」に価値は無いからだ。

そして道を失ってしまった「何ものでもない者」は何がしたいかもわからなくなってしまうのだ。
だから「何ものでもない者」に「何がしたいの?」なんて聞いても「何がしたいかわからない」と答えるのは当然だろう。

僕が生き辛い社会だなと思うことの一つが「何かに成る」にこだわりすぎることだ。
「何かに成る」価値観では、「何ものでもない者」に対しての救済が何一つとして存在しない。そして冷酷な目で見つめもする。

そりゃ子供も自殺するわな。

「何かに成る」という価値観には、「何かに成った」後の「その上で何をするか」という視点が欠けているように思える。

医者になった先の、「人を助けたい」とかそういうことだ。

「何かに成る」は思考停止の価値観だ。

子供の未来を考えるのであれば、「何かに成る」ことよりも「何がしたいか?」を育てる必要があると僕は思った。

だいぶ脱線してしまったが、僕は映画監督に成る、ということよりも「より多くの映画を作ること」が大事だと気がついてしまったのである。

づつく