『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
2019年に1作目『ジョーカー』が公開されてから5年が経った。5年前といえば僕は28歳だったわけで、『ダークナイト』でジョーカーを演じたヒース・レジャーが亡くなった年齢と同じだったのである。
それから5年の月日が流れ、僕はヒース・レジャーよりも長生きしていることになる。
そんなことをつい最近知った。
結局『ダークナイト』でのジョーカーが一番狂っているのかもしれない。
ここから先は『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のネタバレがふんだんに盛り込まれております。
『ジョーカー』の続編の公開が決まったときから、早く観たいなぁ、待ち遠しいなぁ、と思って日々を過ごしてきたわけだよ。ところがなんだい、ありゃ。
僕は『ジョーカー』の続編を観に行ったと思ったのに『ララランド』を観てしまったのか?しかも『ララランド』に遠く及ばないぞ。
薄っっすい内容を歌と大袈裟な音楽と演出で引き伸ばして引き伸ばしてさらに薄っっっっすくしちゃってさ。いやでも画作りは良かった。すごく綺麗。うん。それだけ。
1作目の、アーサーという人物はジョーカーの作り出した虚構でメタ的な視点で描かれて云々みたいな考察が飛び交ったり、想像の幅があった感じがすごく良かったのに、2作目で全部ぶっ壊された。
1作目の精神病棟?でのラストシーンは完全に無かったことになり、この映画にはメタ的な要素は何も無く、アーサーはただの可愛そうな中年でしかなかった、ということになる。
うーん、色々と解釈してた人ほど怒り心頭だと思う。僕は怒り心頭だ。
隣人の親子がどうなったのかはご想像にお任せしますという感じだったのに、いや普通に生きてたんかーいという肩透かしを食らった。
アーサーは6人を殺害したということで裁判にかけられたのだが、だんだんと観てるうちにこの人を持て囃すのおかしくない?という気持ちになってくる。
映画内の人物もアーサーに対して同じ気持ちを抱いてくるのであるが、大衆だけはそうはならずアーサーの中のジョーカーを信奉し続ける。
アーサーに対する鬱憤がラストシーンの「彼」によって晴らされるわけだが、「彼」こそが観客がジョーカーに対して抱いていたことの全てを代弁している。ジョーカーに期待する観客もジョーカーと同じなのでは?と。
まあその辺は制作側の狙い通りなんだろうけども、最後の「彼」の行動が僕はアーサーへの怒りを晴らすというより、この映画に対する怒りに変わってしまったわけで。
なんか、膝から崩れ落ちたよ。
エンドロール後に何かメタ的なやつあるよな?と思っていたがそれもなく。アーサーが息絶えて映画も終わってしまった。アーサーが刺される前に誰が面会にこようとしたのか。そんな考察にも価値はない。
多分脚本上都合がいいからでしょう。
1作目であった社会的なものとか、メタ的な考察とかジョーカーは善良な心にも忍び寄るみたいなものは何じゃったん?
いやまあアーサーの最期には目をつぶるとして、にしても内容が薄すぎる。
ぎゅっとしたら30分もかからないぐらいの薄さに感じる。
カルピス入れたのに水入れすぎたみたいな。ええ?これだけ?みたいな。
制作側的にも困ってしまったんだろう。DCユニバースやってんのにバットマンで主要人物であるジョーカーがこれだけ独り歩きしちゃったら。
そりゃアーサーには退場してもらうしかないよ。そんでアーサーを刺した「彼」が第二のジョーカーみたいな感じで出てくるんでしょう。
うん、仕切り直し。多分ブルースウェインの年齢も調整されるんでしょう。
『ジョーカー2』を公開初日に観に行った男がいたんですよ〜
な〜に〜?やっちまったな〜
男は黙って『ダークナイト』、男は黙って『ダークナイト』