マレーシア編 コノハムシを捕まえろ

押してますか?心のシャッター 昆虫放浪記 -コノハムシを捕まえろ- その7

前回の記事はこちらから




インビ駅周辺をうろうろ

腹が減ったので飯を食いにゆく。
インビ駅周辺には中華料理やら屋台やら色々な飯屋があった。

初日から結構動き回ったので肉を食らいたい。

中華料理もいいがとにかく肉だ。
油で揚げた肉しか眼中にない。

気づいたらモールの中の飯屋の前に僕は立っていた。
揚げ物あるやん、、

そこは韓国系の飯屋だった。(どの辺に韓国要素があったのかはうろ覚えである)
店の前のメニューをじっと見ていると店員が近くまで寄ってきて僕の方をじっと見ている。

…去りにくいやんけ。
僕はその店に入ることにした。

お値段日本円にして450円ぐらい。
ニンニクソースとチキンが奏でるハーモニー的な。
うむ。うまい。

しかし微妙に量が少ない気がしなくもない。

プチトラブル

一応腹も満たしたので、
明日の朝食とシャンプーを買いにコンビニへ。

シャンプーなど無くてもなんとかなるだろうと思い、固形石鹸一つだけ持ってきていたが
さすがに尋常でない量の汗を昼間に掻いてしまったのでやむを得ず買うことに。
パンテーンの小さいボトルを買った。
お家で愛用のシャンプーだ。(どうでもいいですね)

ホテルに戻った。
宿泊費ってもうちょっと安かったよなぁと思いBooking.comのアプリを立ち上げる。

あれれれれぇ
なんかキャンセル扱いになっとる!
チェックインしたのにキャンセル扱いになっとるぅ…

直前でのホテルキャンセルはキャンセル料が取られることになっていた。
これは困ったなぁと思い、Booking.comの運営にメールを送る。

ホテル側の問題でもあるよなぁとも思ったので、これどないすんねん!と言いにフロントへ。

フロントに着いた。

…って、フロントのおっちゃん礼拝しとるぅ~。
そりゃイスラム教だもん。礼拝の時間あるから仕方が無いよぉ~。

…どないすんねん。礼拝はどんぐらいで終わるのだ…?

部屋に戻る。
30分ほど待って再びフロントへ。
礼拝は終わっていたようだ。

近寄ってみるとそのおじちゃん、誰かとテレビ電話をしている。

「なんか用か?」
「すんません、チェックインしたんやけどなんでキャンセル扱いなってるん?」
「ああ?」
「だからチェックインしたのにキャンセル扱いなってるから」
「ああ、大丈夫大丈夫」
「いや、キャンセル料とか払わないといけなくなっちゃうじゃん?」
「大丈夫大丈夫!はいこの話終わりね」
「ええぇ」

僕は苦笑いをしてしぶしぶ部屋に戻った。

これ大丈夫なのかなと心配していたが、次の日Booking.comの運営からメールが届き、特に問題は無くキャンセル料の支払いも発生しない、とのこと。
チャンチャン。

まったく、日本人はカリカリしてるぜ
とフロントのおっちゃんに思われていたに違いない。

記憶を反芻する

シャワーを浴び、ベッドに入った。
部屋にwifiが通ってないことや、通信量の制限もあったので極力スマホを弄るのは控えていた。
特にすることもないのでペンと手帳を取り出し、今日あった出来事などを思い返すことにした。
はて、こんなに一日の出来事を振り返ったのは何年振りだろうか。

帰国後にブログを書いていて、後悔していることがある。
一つはビデオカメラを持っていかなかったこと。
もう一つが、思っていた以上にマレーシアの街並みの写真を撮っていなかったことだ。

写真を撮る、ビデオカメラを回す、
という行為は時として「出来事そのものを味わう」ということの妨げになることがある。

映画「LIFE!」の中でショーン・オコンネル(ショーン・ペン)が言った、
『自分にとって好きな瞬間だったら、カメラに邪魔されたくない』
という感じのセリフがある。

学生時代に撮った仲間たちとの写真は、かけがえのない大切な宝物だ。
しかし写真に残ったイメージが強すぎて、仲間たちとの記憶が写真のイメージの枠を超えていかなくなってしまっていることに最近気がついた。
記憶が写真ベースでしかなくなってしまっているのだ。

僕らスマホ世代は記憶の保存に甘いと思う。
残したい記憶は全部写真に収めれば良いという気持ちがどっかにある。
そのうえ写真を撮ることに熱中してしまい、出来事そのものを楽しむのを忘れるという本末転倒な事態に陥っている。
残ったのはシャッターを切った記憶だけで中身がまるで無い。

確かに、動画を作ったりブログを書いたりするという観点から考えれば僕はもっとカメラを回しシャッターを切るべきだった。その点では後悔している。
しかし、僕はマレーシアでの思い出がカメラを回しただけ、シャッターを切っただけというものになるのが嫌だった。

なるべく写真を撮らず出来事の一つ一つを味わう。
そして、その出来事の記憶を反芻したい。
「日記を書く」ということがそれらを叶えてくれた。

僕は中高生のころ、日記を書いたり書かなかったりの生活を続けていた。
日記が書いてある日の記憶はかなり鮮明で、写真に残った記憶よりもはるかに鮮明だ。
僕にとって「日記を書く」という行為は、心のシャッターを押し、記憶を永遠のものにするということだった。
しかし、いつの日からか、記憶の保存を写真に頼るようになってしまっていた。

・・・・よし。
マレーシアに滞在中、僕は大いに心のシャッターを押した。

つづく