映画の話

映画『ジョーカー』の感想と考察まとめ

image ワーナー ブラザース

映画『ジョーカー』を見てきたので、その感想と簡単に考察をまとめてみた。
下のになるとネタバレも含みますので、観てない方はご注意ください。

そもそも『ジョーカー』って誰?

ジョーカーとはアメリカンコミック1つであるDCコミック作品『バットマン』に出てくる最大の宿敵の名前。
これまでに実写映画化されてきたバットマンシリーズの中で、ジョーカーは何回か登場してきた。どの作品にも出てくるジョーカーの名前は同じではあるが、同一人物ではない。(なんやかんやでジョーカーになるまでの背景が結構違う)
今回の『ジョーカー』では、ジョーカー自身にフォーカスを当てて、なぜジョーカーは誕生したのか?が物語の根幹になっている。

今までの映画で出てきたジョーカーの中で有名なのが、
『バットマン』でジャック・ニコルソンが演じた道化師のようなジョーカー、
そして『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じた極悪人のジョーカー。

今回の『ジョーカー』でジョーカーを演じたのは、ホアキン・フェニックス。
ローマの剣闘士を描いた映画『グラディエーター』では残忍な皇帝を演じている。

『ジョーカー』の素朴な感想

素朴な感想として、「すげぇモン観た」の一言である。
映画を観終わった後、僕はしばらく街の中を呆然としながら歩いてしまったのだ。
そのぐらいのレベルでダメージを受けた。

内容自体もすごいが、ホアキン・フェニックスの演技もすごかったのである。

正直なところ『ジョーカー』を観るまで、『ダークナイト』でのヒース・レジャーが演じたジョーカー(ヒースジョーカーとする)が凄すぎたのもあって期待はしていなかった。
が、予想を遥かに上回る結果となった。

ヒースジョーカーの後のジョーカーは誰が演じてもヒースジョーカーには及ばないだろうと思っていたが、今回のホアキンジョーカー(ホアキン・フェニックスが演じるジョーカー)はヒースジョーカーに匹敵するというか上回ってるんじゃないの?ってぐらいであった。
まさに怪演であった。

演じた俳優が、怪演で有名になるという強烈なキャラクターがジョーカー以外にいただろうか?
『ダークナイト』から『ジョーカー』までは11年の隔たりがあるが、そんな短期間に2度も強烈なジョーカーが出てくるとは物凄いことである。

ここからはネタバレを含みますので、観てない方はご注意ください。

ネタばれありの『ジョーカー』の感想と考察

『ジョーカー』は辛い映画であった。
アーサー(ジョーカー)に起きることすべてが悪い方向ばかりだし、その様相はまるで『ダンサーインザダーク』だ。
しかもブルースウェインは子供のままでバットマンは不在であり、混沌としたまま映画はおわってしまう。

ジョーカーをやっつけるバットマンは現実にも存在しないということを見せつけられたのである。

映画を観た多くの人が言うように「救いようのない映画」であり、間違いなく絶望映画の一つとして認定されるだろう。

ここからは、あれれ?と思ったシーンだとか
これはこうなんじゃないか?みたいなことを書いていく。

現実世界と妄想世界の狭間

アーサーは精神病患者であった。
それを象徴するかのように、アーサー自身の妄想が現実世界の出来事のように描かれるシーンが何度か出てきた。

多くの人が混乱したと思われる描写が、アーサーの住む家の近所のシングルマザーの女性との関係だろう。
アーサーの頭の中では恋人だったが、完全に何の関わりもない女性だったことが判明するシーンだ。

このシーンを観て、あれ?どこからどこまでが本当の話なのだ?という感覚になり、その後のTV出演の話なんかも嘘の話なのでは?という錯覚に僕は陥ったのである。

妄想世界のシーンと言えば、
・冒頭のTVショー
・近所の女性とのデート
・母親が逮捕され尋問されているシーン(アーサーは少し半透明のような)

であったのだが、
共通する点として「アーサーが誰かから存在を認められた」ことにあると僕は思う。

冒頭のTVショーでは憧れであったロバートデニーロ演じる「マーレイ」に存在を認めてもらえるというシーンであり、近所の女性の女性はアーサーの心を理解する女性として描かれている。

母親が逮捕され尋問されているシーンではアーサーがその場にいるようにして描かれてはいるが、少し存在が薄い感じで描かれていた気がする。
このシーンは自分の存在を認めてくれていた母親が、アーサーの実の母親ではなく更に虐待をしていたことがわかるという重要なシーンである。
存在を認めてくれていたものに裏切られたからアーサーの妄想世界の中でアーサーの姿がうっすらしたものとして描かれていたのだろう。

その直後に近所の女性が実は妄想だったことがわかるのである。
シングルマザーということもあり、アーサーは恋人像だけに留まらず、死へと向かう母親の代わりとして母親像をもこの女性に求めていたはずだ。

しかし存在を認めてくれていたはずの母親に裏切られたため、母親像として捉えていた近所の女性との関係もただの妄想に過ぎないとアーサーが判断したため、観客にもアーサーの妄想だったんだよというシーンを入れたのだろうと僕は推測する。

自分の存在を認めてくれる人のいない人生がどれほど辛いものか。
カウンセラーであったり友人であったり、多少の心の拠り所さえあればアーサーはジョーカーにならなかっただろう。

辛い話だ。

アーサーのタバコ

最近のハリウッド映画ではタバコの描写は極端に少ない。
意識しないと案外わからないものであるが、昔のハリウッド映画では喫煙シーンがもっとあった。

そんな中で、『ジョーカー』ではアーサーがタバコを吸いまくる。
人と話してるときも常にタバコを吸うし、病院の前でも吸うしポイ捨てするしマナーの悪いスモーカーとして映画冒頭から描写されている。
話の本筋に関わってくるかというとそうでもないが、ジョーカーの持つ反社会的なものの象徴としてタバコが描かれている。

救いようのない話 悪を必要とする社会へ

『ジョーカー』は『ダークナイト』と同様に社会性の高い映画であった。

『ダークナイト』では「正義の揺らぎ」を描いたものであったが、今回の『ジョーカー』では「悪を必要とする社会」を描いていたように思う。
どちらもアメリカ社会を描いてはいるが、日本社会にも当てはまることだ。

『ダークナイト』から『ジョーカー』までは11年の隔たりがあるが、その間に社会も変質した。

トマ・ピケティの著書『21世紀の資本』で書かれていたことであるが、広がる格差を是正する処方箋は戦争だ、というようなことがある。
『ジョーカー』で描かれていたのはまさに格差の犠牲になる人々であり、困窮する者に手をさし向けようともしない人々への反逆を描いている。

現実の話として、富裕層への優遇は増す一方で、持たざる者への救済措置はさらに減少している。
日本社会で考えれば法人税は減らす傾向にあるが消費税は増やす一方だ、というところか。

問題を解決する方法として選挙や話し合いなどがあるが、近年の国会や大企業の不祥事などを見ていると、選挙や話し合いなどなんの効力を持たないのでは?と思わせられる。

『ジョーカー』の中では暴力こそが最大の処方箋のように描かれていたが、
現実問題としても暴力が処方箋にしかならないような気にさせられてしまうのである。

今やジョーカーの存在を望むような社会になってしまったのではないか?
秋葉原の事件や京アニの事件よりも、更に社会性を持った大きな事件が今後起きるのではないかと恐怖感を僕は抱いた。

2019年10月10日追記

いろいろな人たちの考察を読んだので追記をば。

ラストシーンの考察についてであるが、
アーサーがジョーカーになるまでの話しは、精神病棟にいたジョーカー(「嘘つきジョーカー」とする)の全て作り話だったという解釈もあったようで。
僕個人としては、その解釈を聞いてなんだかホッとしたというか、なんだ不幸なアーサーは存在しなくて結局バットマンの宿敵のジョーカーの嘘だったんだ、ということを思った。

誰しもがジョーカーになり得るということをこの「嘘つきジョーカー」は言いたかっただけのようである。

で、最後の最後でジョーカーが精神病棟を走り回るシーンも、「嘘つきジョーカー」の暴走だったんだなと思ったら何となく納得した。

ただ、何か最後のシーンがかなり不気味だなと感じたのは、この逃げ回ってるジョーカーが「嘘つきジョーカー」ではなく、ジョーカーになってしまったアーサーなのではないか?というところだろう。(もはや楽しそうに走り回ってるように見えた)

これを寝る前に考えたとき、僕は眠れなくなってしまった。

『ジョーカー』の何が怖かったかといえば、普通の人間がシリアルキラーになってしまうというところにあって、現実のシリアルキラーもアーサーと同じような境遇にあったという場合が多かったようだ。秋葉原の犯人もそんな感じだったようである。
バットマンの宿敵の誕生秘話ではなく、シリアルキラー誕生秘話そのものでしかない。

そして、そのシリアルキラーに人々が共感し崇めるようになってしまうこと。
映画を観ている僕も、その一員となってしまっているような気がした。


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