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雨
森林研究所を後にし、ケポンセントラル駅へ向かう。
雨が降りそうだった。
遠くで雷鳴が響くなか、僕は再び道なき道を進んだ。
ケポンセントラル駅へ着くや否や、雨が激しく降り始めた。
これがスコールというやつか。
電車が来るまで1時間ほど待たねばならなかった。
ホームのベンチに座り、降りしきる雨をじっと眺めていた。
そこへ車いすに乗った一人の女性が近づいてきた。
中国語で話しかけられたので何を言っているのかが分からない。
僕は日本人だよと英語で言うと、
○○(クアラルンプールへ向かう途中の駅)へ向かうにはここのホームでいいか?と聞いてきた。
スマホで路線図を見せ、ここのホームで大丈夫だよと伝えると、
何しにマレーシアに来たの?学生?いつまでマレーシアにいるの?ということを聞いてきた。
僕もその人もお互いに片言の英語だったので、うまく意思の疎通が図れていなかったように思う。
雨は降り続き、電車の来る気配は無い。
車いすの女性は手持ち無沙汰そうにホームをうろうろしていた。
僕の隣に座っていた若い女性が
「電車はいつ来るのか?」と尋ねてきた。
「知らないよ」と僕は答えた。
再び僕は雨を眺め始めた。
ふと周りを見渡すと、僕と同じように呆然と雨を眺めるひょろっとした男性がいた。
しばらくして、車いすの女性が何か叫んだ。
「電車が来たよ!」
優しさとは?
電車が来る直前、一つのことが脳裏をよぎった。
車いすの女性が電車に乗るとき、僕はどうしたらよいのだろうか。
僕はこの人と話したんだから何かしら手伝うべきだよなだとか、毎日車いすで生活してるんだから自分でなんとかするだろう、乗るときにスムーズに乗れなさそうだったら手伝おう、というようなことを考えていた。
電車がホームに到着し、ドアが開いた。
車いすの女性はどうするのかと思っていると、
車いすごと僕の方へ振り返り、誰かが手伝ってくれるのを待っている。
あ、
と思っていた刹那、横から先ほどのひょろっとした男性がすかさず車いすを電車の中へと引っ張りあげる。さらに僕の隣に座っていた女性も加わり2人がかりで車いすを引っ張り上げる。
僕はどうしたらよいのかわからなかった。
ただただその様子を眺めることしかできなかった。
車いすの女性が電車から降りて「ありがとう」と言うと二人は満面の笑顔で頷き、それぞれその場を去っていった。
その笑顔には下心など存在しない、純粋な優しさがあったように思う。
自分でなんとかするだろう、と考えてしまった僕の心の貧しさよ。
僕は人に親切にすることすら、見返りを計算した上で行おうとしている。
優しさとはなんだろうか。
定言命法的に考えるのであれば、
人への親切そのものが目的でない親切だったら、親切にしない方が良いとも思う。
ほんの少しでも見返りを求める優しさだったら、それは優しさとは言わない。
やらない善よりやる偽善というのもナンセンスだろう。
カルマというのが存在するとしても、
自分自身のカルマのためにする親切であるならば、それはカルマ上昇につながるとは思えない。
(電車の件のあとカルマが下がった気がして物乞いにお金を渡すとかしたが、それは何か違う。これで何が買えるんだよ?っていう額を渡しただけだった)
僕がする優しさは結局のところ、自分のことしか考えていない優しさだったんだろう。
ただ、辛いことがあったときに仲間がしてくれた見返りの無い親切を、僕も少しずつできるようにしたい。
つづく